大切なものを失い、池のある公園を訪れた航也は、ギターを手に歌うマークと出会う。どんなときも泣いたことのなかった航也が、その歌を聴いたときはじめて涙を流す──深い悲しみを負ったふたりの出会いを描いた「1998年からのラプソディ」。美しい手を持つ青年と、その年上の恋人のコロナ禍中の出来事を描いた「札幌、春の雪」。祖母の戦争の記憶を背負った男とその息子のささやかなやりとりを描いた「ザリガニの丘」。障がいのある弟とともに生きる姉の取り壊し寸前のアパートでの暮らしを描いた「日々の町」など人の心の奥底にある喪失、罪、苦悩に触れる、熱い涙のような短編6編。時間は巻き戻せない、ただ前に進んでいくだけ。重いものを背負いつつ、地を這って生きる人々に送る、抒情あふれる物語。
自分に似た未来の誰かのために物語を書きたいと思って生きてきました。いまでもそう思いながら生きています。元来がのろまな上、いくら手探りしてもなかなかうまくいかないので時間ばかりかかってしまっているのですが、それでも。
十一歳の時分、(いくつかの己に起因しない理由から)僕は世界を呪い、日常を苦しいと感じて生きていました。そんなとき、いくつかの創作作品によって僕は救われました。それはあとになってそう気づいたということではなく、リアルタイムの原体験として「僕は・いま・救われている」と強く感じたのです。その記憶の手ざわりは、いまでも昨日のことのように思いだせます。
あのときそう感じることができたのは、それら作品の制作者が、当時の僕が置かれていた(比較的特殊な)立場に対しての近い眼差しを持ってくれているのだと分かったからでした。もちろんすべてが同じではない。違うところもたくさんある。あるいは理解してくれていない、気づいてくれていないと感じるところも。
それでも、学校や地域社会といった現実空間ではそういった眼差しを持つ他者が一切存在していなかったから、その出会いが大いなる救いになったのです。どうやら世界には自分のような境遇の者を、物語という手段を通して見てくれる人間がいるらしい。そう知ることができました。
とはいえ、僕がそのような出会いを持てたのは幸運なことだったのかもしれない、と年齢を重ねるにつれて考えるようにもなりました。世界には素晴らしい創作作品があまたありますが、あのときの自分を救ってくれるであろうと感じる物語と新しく出会うことはめったにありません。
それは、多感なこども時代に知ったものは特別だからだ、という時間的な要因ももちろんあります。ですがそれだけでなく、世界はあまりにも広く多様で、本質的に自分に近い他者と巡り会うことは、物語という橋渡しがあっても結局とても困難なのだということかもしれません。
ならば、過去に受けた恩を未来に返すための悪あがきをする義務が自分にはある。己の能力の有無とは関係なしに。そう考えるようになりました。なぜなら少年期からいまに至るまでの人生の過程で僕が経験した物事には、いくらか珍しい部類のものが含まれており、それを物語の形へ適切に転化させることができれば、誰かの救いの糸口くらいにはなるかもしれないからです。
二〇二〇年春、新型コロナ禍による社会混乱のなかでオンライン文芸コミュニティ「星々」の活動が立ち上げられ、スタッフの一員として携わることになりました。その運営業務は正直とても大変ですが、この場を長く継続することが恩返しの方法のひとつとなるかもしれない。そう覚悟して役務を引き受けることにしました。その星々の個人作品集レーベル「星々の本棚」から刊行されるこの作品集が、いつか自分に似た世界の誰かに届けばいい。そう願っています。
江口穣
星々vol.5 〈星々の本棚「1998年からのラプソディ」(江口穣)刊行記念小特集〉より
ザリガニの丘
札幌、春の雪
日々の町
遠いさえずり
1998年からのラプソディ
湖の畔の家で
2024年5月発行 B6版 152ページ
定価1,430円
装画 泉瀧新
装丁 mikamikami
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