最高にカッコいい平安!をテーマに料紙の文化を普及させる活動をしています。墨流しアーティスト、書芸家としても未来に平安文化を伝えるための作品制作もしています。
料紙と和歌のはなし
紀貫之は平安時代の名門エリートボーイだった。応天門の抗争以降、藤原氏がこれからブイブイいわせるぜ!て時期に産まれて、エリートコースから除外されたし出世の見込みもない。そんなスーパーハードモード人生のスタートを余儀なくされた。簡単に言うとそんな時代に生きた人。
このままオレの一族も解散か…。なんて嘆いているくらいなら、いっそのこと開き直ってオレは歌人の頂点に立つ!そう思ったかは知らないけれど、自分の才能を信じたアラフォー貫之は文藝の世界を志したのである。とは言えいきなり始めた訳でもなく、周囲も人たちも彼の才能には気づいていたはずだ。そんな熱意が伝わったのか、貫之に勅撰和歌集の撰者の依頼が飛び込んでくる。きっと彼は、オレの時代が来たぜ!そう思ったに違いない。勅撰は、今の時代で言えば国家事業で文芸書を作る的なこと。少し違うかもしれないけれど、例えばアラフォーでノンキャリアの作家がいきなり万博のキュレーションを任されたと考えれば、相当凄いことである。そして貫之はそのチャンスをしっかりと掴んだ。後世に名を残し歌人の頂点に立つべく、めちゃくちゃ張り切ったのである。それは古今集の序文を読めば分かってもらえるだろう。
実際に名実ともに尊ばれ一千年以上その名が残った。和歌をよく知らない人でもその名前くらいは、知っているほどのまさに歌人の「神」となったのだ。
そんな貫之は古今集の序文で、和歌は人の心を種にして、よろずの言の葉で歌となる。花に鳴く鶯や水に住む蛙のその聲を聴けば、生きとし生けるもの全てが歌を詠んでいることが分かるだろう!と言った。まさに最強の歌人の言葉である。けれどもそこで、けっして忘れてはならないのが、その選び抜かれた1000首以上の和歌を書き記し、それを書くための紙を作った人達がいたということだ。彼らがいなければ我々は、歌神貫之のことを知ることはできなかったのだから。
当然のことながらキュレーターは和歌を集めるだけではない。選び抜いた和歌を当時の最高の技術で作られた紙に、能書家と言われる毛筆をあやつる書のプロフェッショナルを集め一冊の神々しい本に仕上げることができて初めて、手渡すことができるのだ。
残念ながら延喜5年(905年)に貫之がドヤ顔で奏上した原本の古今集は残ってはいない。しかし貫之と同様に神本として扱われた古今集は書の道のプロから限界オタクまでが、こぞって書き写してくれたおかげで布教された。そしてそれらは、装飾の美しい料紙に書き記されエライ人に贈答するためや、手鏡というコレクションにされてきた。
そして文字を扱うプロフェッショナルもまた貫之と同様に、書の神として尊ばれるものもいた。その話は、貫之以上に長くなるので別の機会にする。話の本質は、ここからが最も重要であり最も悲しい物語の結末なのだ。数多くの歌人の名や能書家の名声は、その作品とともに現代まで尊ばれ続けてきた。それにも、か・か・わ・ら・ず、最高の技術で作りあげられた最上の紙の芸術には、一切の名声は与えられなかったのである。
きっと、作り手は身分が低かっただろうし、それは仕方ない当然のことなのでは……。と思った人は、きっと近代的な何か、西洋文化的な何かに脳みそをハックされているのではないだろうか。
国風文化とはっ!和歌の文化であり、歌詠みと、ひらがなと、料紙の美しさが寄り添い合ってできる日本最古の最高の総合芸術なのだ!
なにゆえに、このようなことになってしまったのだろうか、考えてみて欲しい、吹き出しのセリフの文字がリズミカルにテンポよく並び、ストーリーを構成していくマンガの、その背景に、もしも絵が描かれていなかったら!!!それはマンガと言えるだろうか…。それは和歌と料紙の関係と同じ問題なのだ。
日本人は平安の時代から観ることと読むことのはざまの空間を認識できる感性を持っている。それはなにも変わらない。けれども、漫画家には名前がある。現代歌人にも名前がある。そして室町以降に開花した茶湯の茶碗にも、名刀と呼ばれる日本刀にも、道具でありながらもそれらには、しっかりと名が刻まれてきたのだ。そしてぼくは、現代の料紙職人。2024年1月に身罷った僕の師匠の名をみんなは、きっと知らない…。
歴史は変えられない、過去には戻せない、それは永遠に届かない、それでもつなげたい想い、ひとりよがりの儚ブルー。
継承していくことって何なのか、いつもそんなことを考えてる。
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