5階 トークイベントスペース
12:00〜13:30 無料
糸川乃衣
なごみ
貝塚円花
蓮見
森潤也(ポプラ社)
江口穣(星々事務局長)
司会 羽田繭
歴代星々短編小説コンテスト受賞者の糸川乃衣さん、なごみさん、貝塚円花さん、蓮見さんと、ポプラ社の森潤也さん、星々事務局長の江口穣が登壇!
第3回星々短編小説コンテスト(テーマ・地図)受賞作の合評会です。
受賞作を通して、小説についてじっくり考える90分。
歴代受賞者と星々のスタッフ、そしてプロの編集者が小説創作に寄せる思いを語り合います。
◆合評の対象となる作品(期間限定公開)
第3回星々短編小説コンテスト(テーマ・地図)
10000字部門正賞
「フロアマップ」桃澤うみ
フロアマップ
桃澤うみ
掛布団を背負ったみたいに重たそうな、分厚い背中がそこにあった。
「うそっ」
エスカレーターの下に、ぽつんと立っている祖母の、ばばの曲がった背中を見つけた時、思わず声をあげてしまった。ばばは、音を立てて動くエスカレーターを、何をするでもなく、ただ眺めていた。
「なんでいるの、歩いてきちゃったってこと?」
後ろからばばの右腕を掴もうとして、だけど、すぐに手を引っ込めた。ばばの太い腕は汗で湿り、蛍光灯の光を跳ね返している。青白い肌のいたるところには、墨汁を垂らしたようなシミが出来ている。
ありえない。自分で外に出るなんて、ありえないって思っていたのに。
「ねえってば」
私の顎の位置と同じくらいの高さにある、その後頭部に向かって呼びかけた声は、思ったより鋭く響いて、自分に苛々する。
その声に、ばばは小さく肩を揺らすと、ゆっくりとこっちを向いた。垂れて伸びた白い頬。潤んでいるようにも、濁っているようにも見える、充血した瞳。縮れた灰色の細い髪。口角の下がった小さな口は、ぽかりと開いている。けれど、私の顔をしばらく眺めるうちに、ふと驚いたように目を見張り、やがてくしゃりと笑って、ばばは言った。
「あら、れいちゃん」
魚のような形をしたまるい二つの眼が、口元を歪めた私の顔を映していた。
れいちゃん。一瞬、その声が、本当にばばの口から出たものなのか、私には分からなかった。ばばが私を見て、私の名前を呼んだ。
「思ったより空いてるのねえ」
ばばは、辺りを首だけできょろきょろと見まわして言った。懐かしい声だと思った。語尾を伸ばす、少しうわずった声。
「れいちゃん、ばば、お茶屋さん見たいわあ」
もう一度ゆっくりと周りを見渡すと、ばばは、笑い声をあげて言った。
本日もご利用誠にありがとうございます——。館内アナウンスが、黒ずんだ床の上を煙のように滑っていく。
自転車を飛ばして家を出たのはいいものの、行けるところなんて、このショッピングセンターくらいしか無かった。ここは、私が小学校に通っていた頃に出来て、今年で十年目になったらしい。だけど、高校に上がった時くらいから、ぽつぽつと空きテナントが目立ってきて、夏休みといっても平日の今日だって、他のお客とはほとんどすれ違わなかった。
さっきまでいた二階の本屋なんて、品ぞろえが年々悪くなっているし、今まで絵本が並んでいた本棚が撤去されて、代わりにカプセルトイがずらずらと並んでいた。日本史や世界史を漫画化したシリーズだけは、数は随分少なくなったけれど、受験コーナーと、漫画コーナーのちょうど中間くらいの位置にまとめて置かれていた。ここが出来た時から、ずっと同じ位置。
「れいちゃんは、どこか行きたいお店あるの?」
え、どういうこと。なんで今は話通じるの。今のばばは、妙に上機嫌だ。鼻歌でも歌い出しそうなうきうきとした顔で、私を見上げて笑う。
「欲しいものあったら、今日はばばが買ってあげるから」
ばばが、私の右手を握った。分厚くて、生温かくて、汗で湿ったその手をすぐに振り払った。空中で止まったままのばばの手は見ないふりをして、右手をズボンの裾で拭いながら、いらない、とだけ呟く。
「もういいから。とっとと帰って」
「あらやだ。今日、開店日なのに?」
「は?」
ばばは、黒いポシェットの中から、くしゃくしゃになった紙を取り出して、開いて見せた。縦長の長方形がふたつ横並びに描かれていて、その中に、番号付きの、大小さまざまな四角形が並んでいる。
フロアマップだ。このショッピングセンターが出来たばかりの頃、エントランスで配られていたやつ。なんでそんなもん、まだ持ってるの。ため息をつきたくなる。今から一年くらい前に、紙のフロアマップの配布は廃止になって、今ではデータ化されたものがホームページに掲載されている。
「うちの近所に、こんな大きい買い物場所が出来て、嬉しいねえ」
どうやらばばは今、十年前の今日を生きているらしい。
春休み頃からなんとなく、同じ話ばかりするようになったとは思っていた。それから、おかしな咳をするようになって、夏休みに入った頃には、ばばは、私の知っているばばとは、すっかり変わってしまった。
私の知っているばばは、いつでも台所に立っていたけれど、気づけばもう、台所に入ることすらしなくなった。もっと口うるさくて、文句ばっかり言っていたのに、今ではいつでも食卓の椅子に座って、どろんとした目で、壁をじっと見つめて、一日を過ごす。
親が共働きだったから、学校から帰った後は、ほとんどばばと過ごしていた。そうすると、おばあちゃん子になるのかもしれないけれど、むしろ逆で、ことあるごとにばばと喧嘩ばかりしていた。ばばは結構口が悪かったし。だから、ババア、に語感が似ているから、「ばば」と呼び始めたのに、ばば自身は、ばあば、みたいなかわいい呼び方から派生したものだと勘違いしていたみたいだ。
だけど、今では、ばばを覆っていた、ばばとしての皮のようなものがずるりと剥けて、まるで、粘土で出来た人形みたいになってしまった。気味が悪いとすら思う。
夏休み中、父と母が仕事に出かけている間、家には私と、ばばしかいない。だから二階にある、自分の部屋に閉じ籠っている。だけど、ドアを閉めていても、一階の廊下を摺り足で歩くばばの足音と咳の音、それがどうしたって聞こえてきてしまう。喉から絞り出すようにして、痰を何度も吐き出そうとする音。ガァッ、ガァッと喉を鳴らして、ゴミ箱やシンク、ひどいときには、窓の外に向けて、痰を吐き出す。それを、一日に何度もやる。咳の音と、痰を吐き出す音がひっきりなしに聞こえる。自分の体の内側に、手を突っ込まれて乱暴にかき混ぜられているような気分になる。静かに、でも確実に、空気に押しつぶされそうだ。体に圧し掛かるような灰色の空気が、家の中に停滞している。
今、目の前にいるばばも、一見私が知っている、口が悪くて、口を開けば文句ばかり言っていたばばのように見えるけれど、全然違う、ばばのような誰かなのだろう。ばばは、くしゃくしゃのフロアマップに顔を近づけ、私に背を向けて歩き出した。
「ちょっとどこいくの」
Tシャツに汗染みの出来た大きな背中が、ひょこひょこと揺れている。
「お茶屋さん。あそこの」
振り返らず、ばばはエスカレーターを挟んで向かい側のテナントを指さす。喉の奥をぎゅっと絞ったみたいなため息が、口から転がり落ちた。こんなことをしていていいわけが無いのは分かっている。はやくばばを連れて、家に帰らないと。それなのに、ひょこひょこと揺れる、ばばの曲がった背中の少し後ろを追いかけて歩き始めてしまった。ここにはもう何度も来ているけれど、ばばとふたりで来たことは、数えるくらいしかない、ていうか、ほとんどない気がする。だけど一度だけ、前にもこうやって、この通路を歩いたような気がするのに、それがいつのことなのか思い出せない。
「ここね、ここ」
フロアマップを握りしめながら辿り着いたそこは、スマホのプラン相談所だった。スーツ姿の、私より少し年上くらいの女の人が、長机の上に置かれたタブレット端末を操作している。
「あらっ?」
ばばは、フロアマップを何度も見比べながら、首を傾げた。
「ちょっと、すみませんねえ」
女の人が、「はいっ」と言いながらタブレットから目を上げた。首から下げた名札が、胸の前で揺れている。
「お茶屋さんは、どこかしら」
「お茶屋さん、ですか?」
女の人が眉をひそめながら椅子から立ち上がり、入り口までやって来た。
「ここのテナントが、前までは、確かお茶屋さんだったと思いますけど」
「潰れたってことですか」
私が尋ねると、「そうですね。ここが出来たのが今年の春なので」と答えた。あー、と適当に相槌を打ちながらばばの背中に向かって、
「お茶屋、潰れたって」
と言ったのに、ばばはフロアマップから目を離そうとしない。
「ねえ聞こえた?」
「でもここには、お茶屋さんって」
ばばが、フロアマップを指さして首を傾げる。
「だから、それ昔のやつだから」
「でも」
腕をずいっと伸ばして、今度は女の人にもフロアマップを見せようとするから、
「ねえ、困らせちゃだめだよ」
と言って、ばばと女の人の間に割り込んだ。困惑したような顔のばばから目をそらしたくて、女の人の、きれいにラメが塗られた瞼をぼんやり見ながら、「すみませんでした」と会釈する。
「あれっ」
突然、女の人が私の顔を見て声をあげた。
「れいちゃん?」
あ、という声が口からついて出た。
「岩倉さん」
岩倉さんちのお嬢さん。そうだ。この人だ。思い出した。近所に住んでいたお姉さん。ここで働いていたんだ。目尻を下げて笑う岩倉さんの顔を、見上げるようにして眺める。
「久しぶりだよね。今高校生?」
勉強大変でしょ、と、岩倉さんが腕を組みながら言った。その言葉に、曖昧に頷く。
「ここも勉強しに来る人多いよ」
岩倉さんが、隣のテナントを指さした。ほとんど空っぽで、折り畳み式の長机とパイプ椅子がまばらに置かれているだけだ。一番奥の机に男の子が一人と、壁側の机に女の子が二人。話し声一つしない空間と、青い鳥とりんごの樹が描かれている、妙にファンシーな壁が、ちぐはぐだ。今までどんな店があったんだっけ。思い出せない。
「おばあさんと買い物? いいなあ」
岩倉さんは笑って言った。
ばばは、隣の自習コーナーとフロアマップを交互に見て、
「お洋服屋さんじゃないの?」
と呟いている。どうやらここは今まで、子ども服売り場だったようだ。
「勉強、頑張って」
岩倉さんが両手を胸の前でグーに握って言った。口だけで笑みを作って、はやく店に引っ込んでくれないかなと思いながら歩いたけれど、私たちが歩き出してからも、しばらく入り口で手を振っていた。
「ほら、早く帰るよ」
ばばは何も言わない。振り向くと、通路の端に置かれた白いソファに片手をついて、座り込もうとしていた。
「座んないでっ」
私の声にはっと顔を上げると、
「でもばば、もう疲れちゃった」
ばばは眉を下げ、顔をしかめながら言った。駄々をこねる子供みたいなその仕草と声に、腹が立つ。
「だったら帰ればいいでしょ」
はやく、と大きく手招きする。ばばは少しためらったような顔をしていたけれど、やがてゆっくりと立ち上がり、私の後ろを歩き始めた。相変わらず一歩一歩が小さくて、一体どれだけ時間かけてここまで歩いて来たんだよと思う。ずっ、ずっ、と足を摺って歩く音が、耳の中に糸を引くように残った。
「あんたは、岩倉さんちのお嬢さんだねぇ」
私に、ばばがそう言ったのは、今朝のことだった。なんだかもっと、ずっと前のことのような気がしていたけれど。
「ちがうよ」
ぐらりと地面が揺れたような気になった。そう答えた声が喉に突っかかって、なんだかひどく弱々しくなった。
「なんで?」
居間に置かれていた固定電話は、今は物置の一番奥に押し込められている。ばばが、郵便局だとか、隣の家だとかに勝手に電話をかけてしまうから。ばばは食卓の、一番台所に近い椅子にどっかりと座って、ガァッ、ガァッと喉を鳴らす。痰が、ばばの喉をせりあがってくる音が聞こえる。首が前後に行ったり来たりを繰り返している。胸が、地面がせり上がるように、不規則に動く。
「あんたは今、どこに住んでるの?」
どこか遠慮がちな、だけど、容赦なく人の内側を踏み荒らす、そんな声で、ばばは言った。ばばの眼が私の周りを、ゆらゆら揺れる。ばば違うよ、と呟いた声が震えたのに気づいて、唾を吞み込んだ。
「ばば」
食べかけのご飯が詰められたタッパーを眺めながら、呟いた。ぐちゃぐちゃに食い荒らされて、米粒が潰れて、容器の側面にこびりついている。ばばの朝ご飯の残りだ。
「家に、帰らないといけないんですよぉ」
ばばが消え入りそうな声で言う。今まで聞いたことが無い、舌足らずな喋り方だった。呂律が回っていない、子どもみたいな声。
「ずっとこちらにご厄介になってしまって」
「誰に言ってんの、それ」
肩が震えた。おかしくもないのに。ばばはその声に気づいていないみたいで、私の方を振り向きもしない。
「ねえ」
ばばの咳の音だけが聞こえる。汚い音。なんでこんなに汚い音が体から出るんだよ。
「私、だれ?」
自分を指さして、私は言った。
ばばは、ゆっくりと首だけを動かして私を見た。濁った眼からは、どんな感情が体の中を渦巻いているのか、少しも窺えない。半開きの口が、もごもごと数回動いた。やがてゆっくりと首を元の位置に戻して、また壁をぼんやりと見つめて、言った。
「わかんないですねぇ」
ばばが、ガァッ、ガァッと喉を鳴らした後、ごみ箱の中に痰を吐いた。
白くて粘り気のある痰が、ばばの窄めた唇から飛び出すのを、視界の端で見た。
気づいたら、川と田んぼに挟まれた道路に、自転車で飛び出していた。
風を切ってペダルを漕いだ。口の中から、正体が分からない音が滑り出しそうだった。車体がぐらぐら左右に振れた。少しでもよろめくたびに、側溝に落ちるんじゃないかと思ったけれど、いっそ落ちてしまえと思った。自分の胴体の半分くらいしかない、暗い側溝に、自転車ごと落ちて、体が捻じ曲がる様子を思い浮かべながら走ったけれど、結局側溝に落ちることは無く、ここに、ショッピングセンターに着いた。
駐輪場から見上げた建物は、うずくまっている死にかけの巨大生物みたいだと思った。内臓はもうぼろぼろで、残った機能が、どうにか体を回している。そんなふうに見えた。
哀れだ。
ばばを置いて、家を出てしまったことに、今更ながら気づいた。だけど、気づいただけで、特にどうとも思わなかった。一瞬でもいいから、ばばと離れたかった。
悪いのは、ばばじゃないのに。いや、嘘。ほんとは、そんなこと思っていない。
ばば、なんでそんなこと言うの。なんで、私が誰だか分からないなんて言うの。悲しいんじゃない。悔しかった。全部が無駄に思えたからだ。今までのこと全部。いつか、私も、ばばみたいになるのかな。なにもかも、忘れるのかな。私にはもう、あの人がばばだなんて思えない。私の知っているばばは、どこに行ったんだろう。ばばの中の私は、れいちゃんは、どこに消えたんだろう。
「チャリ取ってくるから、ちょっとそこで待ってて」
自動ドアの前で、そう言って後ろを振り向いた。その先に見えたのは、人気のない灰色の通路と、脇に並んだテナントだった。ばばが、どこにも見当たらない。エスカレーターの動く音が辺りに響くだけで、重たい体を引きずるようにして歩く、摺り足の音が聞こえない。
「え?」
ばばがいない。
心臓がどくんと鳴った。
四角い箱の中に納まったテナントが、通路の両側にはいくつも立ち並んでいる。アナウンスが流れてきた。本日もご利用誠にありがとうございます——。
隣のテナントまで走って行って、入り口から店内を覗き込んだ。だけど、いない。向かい側の店にも、ばばの姿はどこにも無い。
どこに行ったの。どんどん早足になってきた。なんで焦っているのか、自分でも分からない。分からないのに、あの背中で、あの足で、歩き回っているのかもしれないと思うと、なんだか、居ても立ってもいられなくて、黒ずんだ床に、パタパタというスニーカーの忙しなく当たる音が響く。
「ばば」
両側には、白い蛍光灯に煌々と照らされたテナントと、シャッターが下ろされ、空っぽになったテナントが交互に整列している。ここが出来た頃は、どこの店も売り物がずらりと並んでいて、光が次から次へと溢れ出してくるみたいに見えたのに。
あ、という声が転がり落ちた。思い出した。開店日だ。ばばと一緒に、この通路を並んで歩いた。
そうだ。どこもかしこも人でいっぱいだった。はぐれるといけないからと、ばばは私の右手をきつく握った。ばばと一緒に、エントランスで貰ったフロアマップを真剣に覗き込んで、ここに行こう、次はここに行こうと、人混みの中を潜り抜けて進んだ。
買い物カートを押した老人とすれ違った。ばばじゃないと分かっていても、その顔を覗き込まずにはいられなくて、白髪を後ろできつく束ねたその老人に、怪訝な顔をされた。視界にはいくつものテナントが映って、視界の端に消えて、また違うテナントが姿を現す。早回しのフィルムみたい。
家具店。ここでコップを買ってもらった。中学にあがる直前に割ってしまった。
SALEという赤い紙がいたるところに貼られている、靴屋。ピンク色のパンプスが売っていて、お姉さんになったら買ってあげようねえと、ばばが言った。この紙が貼られるようになった店は、きっと近いうちに潰れる。
ペットショップ。犬を飼いたいと言って、この店の前で大泣きして、泣く子は置いて帰るよと、ばばに怒られた。
輸入食品の店。入口で試飲したコーヒーが苦いと、ばばが店員さんに文句を言った。
からっぽになったテナント。ここにはインド雑貨屋があって、店の前に飾られた、ピンクの象のポスターが怖かったから、ばばの手を引っ張って、はやくお店出ようよと懇願した。
頭の中で、一階のフロアマップを辿った。そこかしこに、私とばばの足跡がある。ばばはその足跡をたどって、ここに来たんじゃないかと思った。ぐしゃぐしゃになったフロアマップを握りしめながら。
「ばば!」
ため息なのか、焦りのせいなのか、荒い息が混じった。誰を探しているのか、何を探したいのか、だんだん分からなくなってきた。
私も、忘れていたんだ。私だって、忘れてしまうんだ。忘れたことにすら気づかないままだった。きっとまだ、たくさんある。たくさん、忘れている。忘れたことは、初めからなかったことになってしまうのかな。空っぽになったテナントが何の店だったのか、もう思い出せないみたいに。怖い。すごく怖い。自分の居る場所が分からない。どう歩けば、私の知っているところにたどり着けるのか、分からない。
どうやら一階を一周してきたらしい。薬局の隣のテナントが目に飛び込んできた。椅子に座った岩倉さんは、さっきと変わらない姿勢でタブレットを眺めている。
「岩倉さんっ」
岩倉さんが顔を上げた。私を見て、少し驚いたような顔をしている。
「岩倉さん、祖母が、どこかに行っちゃって」
「え?」
立ち上がりかけた岩倉さんが戸惑ったように言った。
「どこではぐれたの?」
店先まで出てきた岩倉さんに、「分かんない」と答えたのと、頭上から、「れいちゃーん」という声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
エスカレーターに乗っている、ばばだった。下がってくるエスカレーターの音が、妙にゆっくり聞こえた。
「なにしてんの」
口から滑り落ちた声はあまりにも間抜けだった。ばばは両手で手すりを持って、よいしょっと、と口にしながら、少しよろめいてエスカレーターを下り、私たちの方へ歩いてきた。
「れいちゃん、これ」
ばばはポシェットを開けると、中に入れていた包みを私に握らせた。
「ちょっと、ちょっと待って、どこ行ってたの」
「本屋さん」
小さい口を尖らせるようにして、ばばは笑った。あー、つかれたと呟いて、ばばは、ソファに腰を下ろした。硬いソファがどすんという鈍い音を鳴らした。
「ああもう」
思わず大きな息が漏れて、今までろくに呼吸もできていなかったことに気づいた。片手でぐしゃぐしゃと掻いた髪は汗で湿っていた。
「勝手にどっか行かないでよ」
声が裏返って震えた。ばばは、私の顔をもう一度見て、
「悪かったよう」
と私の腕をさすった。分厚い手が、腕を上下に行ったり来たりした。くすぐったいんだけど、と思いながら、岩倉さんに頭を下げる。
「すみませんでした。ありがとうございました、本当に」
「全然。なんともなくて良かったよ」
岩倉さんは手を横に振りながら言った。
「なんか色々、忘れちゃったみたいなんです」
私のことも。そう半笑いで言った。言った後に、自分の言葉が、少し遅れて自分の耳に流れ込んできて、ああ、そうだった、と思った。ソファに座ったばばの靴が、もぞもぞと動いていた。
「うちもだよ」
力任せに弾ませたような声に、顔を上げた。岩倉さんは「うちは、じいちゃんだけどね」と肩をすくめる。
「もう話しかけても、何も答えてくれないよ。卒業式、見に行くからねって、わたしが大学上がった時から言ってたのに」
岩倉さんが、首から下げた名札の赤い紐を、指に巻きつけながら言った。さっきまでの私は、今の岩倉さんと同じ顔をしていたのかもしれない、なんてことを思った。ぐるぐると巻かれる紐を、口端だけを上げて、しばらくぼんやりと眺めている。
何度目かの瞬きのあと、漂う沈黙にようやく気づいたように、岩倉さんは目線を上げた。
「秋にここ、リニューアル工事するの、知ってる?」
私の顔を覗き込むようにして尋ねる声に、
「リニューアル、ですか」
と返すと、岩倉さんは、うん、と頷いた。
「改修して、塗り替えして、あと新しいフロアも作るんだって」
駐輪場から見た、汚れた外壁を思い出していた。もうすぐ呼吸を止めそうに見えた、この建物。
「新しいお店も増えるからさ、そしたらまた、遊びに来て」
ね、と岩倉さんは微笑むと、またね、と手を振りながら、テナントの中へ戻っていった。革靴が床を軽やかに叩く音が遠ざかって行った。
手渡された紙袋を開けた。中に入っていたのは、日本史の漫画だった。第一巻、縄文時代編と書かれている。いつまでも、本屋の同じ位置に並べられている本。
「それ読んで、たくさん勉強しないとね」
ばばが、私を見上げていた。蛍光灯を反射して、まるい瞳が光を帯びている。皺に埋もれたような小さな口を横に広げて笑っていた。
ばばの隣に座りこんだ。朝から立ちっぱなしだった脚は、脈打つようにしびれている。
「れいちゃん、ここが出来た時、一緒にお店見に来たね」
ばばは、くしゃくしゃのフロアマップを膝の上に置いて、ぼんやりと天井を眺めながら、呟いた。その声は、天井まで吸い上げられるみたいに立ち上っていった。
ばばの横顔を見つめた。小さい眼。皺だらけの頬。私がよく知っているばばの顔だった。
私の知っているばばは、どこに行ったんだろうと思った。いや、どこにも行っていないのは分かっている。変わっただけで、いなくなってはいないのは分かっている。だけど、私はただ、私の知っているばばと、また話がしたい。ただ、名前を呼んでほしい。それだけなんだけど。それだけで良かったんだけど。
ばばの呼吸の音が聞こえる。
「ここね、今度、新しいお店たくさん作るんだって」
ばばの相槌が聞こえてこないから、リニューアルってことね、と付け足す。白くて硬いソファに押し付けた太腿が、汗ばんできた。
「そうしたら、また一緒に買い物、しよう」
ばばがくれた本の表紙を眺めながら呟いた。
「ばば?」
ばばは何も言わないで、俯いていた。だらんと開いた口の中に、赤い舌が横たわっている。ソファに力なくもたれかかり、頭は首からぶら下がるようにして、前のめりに倒れ揺れている。
「ばば」
ポシェットの上に置かれていたフロアマップが、音も立てずに床に落ちた。腕を伸ばして、私はそれを拾った。
「家、帰ろう」
「はぁ」
か細い声で、ばばはそう言って、ガァッ、ガァッと喉を鳴らした。人気のない吹き抜けに、その音は大きすぎるほどによく響いた。汗で湿った背中をさすった。咳をするたび、ばばの背中は前後に大きくうごめいた。
「帰ろう」
「ご厄介をおかけしますねぇ」
ばばの両手を握って、ソファから立ち上がらせた。ばばの眼は、どんよりと曇っていた。
ばばの右手を引いて、黒ずんだ床を進んで行った。ばばの手には力が入っていないから、ほどけてしまわないように、私はきつく手を握った。分厚く、生温かい手だった。
ふらふらと前後に揺れるばばの手を見ながら、ばばはもう、私のばばだった時のことを、忘れてしまったんだということを思った。でも、この人は、ばばだ。
「暑いですねぇ」
ばばが呟いた。何もかも忘れてしまったばばと手を繋いで歩いた今日を、ばばの曲がった分厚い背中を、湿った手のひらを、咳の音を、私は覚えていたいと思った。たとえ、そう思ったことすらいつか忘れてしまっても、どうかどこにも行かないで。
ばばの手を引いて、自動ドアをくぐり抜けた。夏の終わりの、夕暮れに包まれたショッピングセンターは、まるで眠っているみたいに静かで、穏やかで、寂しげだった。
10000字部門佳作
「砂に刻まれるものたちへ」藤井佯
砂に刻まれるものたちへ
藤井 佯
黒い大地が一本の線を成して空の遠さを繋ぎ止めている。見渡す限り人の影はなく、私たちは途方に暮れる。いや、天を仰いでいるのは私だけか。現地で雇ったドライバーは、年代物のウォークマンから流れる陽気な音楽に身を浸し、遠くを見つめながら小刻みに揺れている。ちらりと様子を伺うと、彼は片手を挙げてにこやかに応じた。とても現状に危機感を覚えているとは思えない笑顔だ。開けっ放しのコーラ瓶から甘ったるい匂いが漏れてきて、私はため息を吐く。現在の状況。車がガス欠を起こしたので、砂漠のど真ん中に放り出された。反省と対策。この土地の人々は、ガソリンを満タンにするという考えを持たないらしい。そもそもこの国では何もかもが高騰しているから、ドライバーは十分な量のガソリンを買えなかったのだろう。あれだけ念を押したのに。問題ない問題ない、と何度も言うものだから、信じた私が愚かだった。そもそも、私が出発時にガソリン代を上乗せして報酬を支払わなければならなかったのだ。後悔先に立たず。一時間に一台通るかどうかの自動車を待ちながら、ガソリンを分けてもらい先に進むしかない。少しずつでも、辛抱強く。先ほど出会った親切な夫婦によると、ここから三十分ほど進むことができれば私たちの目指す街に出るらしい。たかが三十分、されど三十分である。分けてもらったガソリンでは、十分も走れば再びへろへろと立ち止まってしまう。日は傾いてきて、急激に温度が下がってきた。覚悟はしていたものの、砂漠の気温変化の激しさが身に堪える。多めに積んだはずの水も尽きてきて、精神的な余裕はどんどん削られていった。
それにしても、美しい土地だ。何もない。ここには、人の営みがない。黒い砂がどこまでも広がって、空には薄ぼんやりと半月が出ている。静寂が支配する。清々しく無風の大地。しばらくして、私はエンジンの音を認める。後方からだ。大きく手を振る。緑色のトラックが私たちの車の脇で停車して、中から中年の女性が出てきた。これから私たちの目指す街へ向かうところらしい。ガソリンを分けてくれないかと懇願すると、快く応じてくれた。女性は、この先の街のホテルに勤めているようだ。家族の急病で帰省していたが、休暇が終わるので街へ戻る途中だという。ホテルの名前を聞いて驚く、そこが私の旅の目的地であったからだ。女性は目を横に伸ばしてにかりと笑い、「これも何かの縁ね」と多めにガソリンを注いでくれた。
トラックと並走して街を目指す。ぎりぎりであったが無事に市街地へと入ることができた。ガソリンスタンドを見つけ道を折れる前に、手前のトラックに向けてドライバーがクラクションを二、三度鳴らした。トラックもビーと返事をして、夜の闇に消えていく。死ぬところだったと冷や汗をかきながら、私はドライバーにお礼とチップを渡し、目的のホテルへと急いだ。先ほど出会った女性が言伝まで引き受けてくれ、フロントにはすでに「地球の裏側から物好きがやってきたらしい」と伝わっていたと見え、私がロビーに到着するやいなやボーイが耳打ちをしにきた。
「リウヒさんはちょうど夕食をとられているところですよ」
全身がカッと熱くなった。彼女がもうすぐそこにいる。取り憑かれたように文献を漁り、興味は尽きることなく、はるばる本人にまで会いに来てしまった。夢にまで見た邂逅が、すぐ目前に迫っていた。
ミルヘ・リウヒ。間近で見た彼女は小さかった。しかし背筋はぴんと伸び、きびきびと動く。重心は右に傾いているが足取りはしっかりとしている。御年八十五になるはずだ。それでも彼女の顔つきは若々しく、持病の悪化を欠片たりとも感じさせなかった。左手がきらりと光った。大ぶりなエメラルドの指輪だった。私はレストランから出てきたミルヘの元へ走った。息が弾んで言葉が詰まる。辛うじて、貴方の研究に興味があること、はるばる貴方に会いにきたこと、これまでの話を聞かせてほしいこと、たどたどしいツェーリヒ語で伝えると「まあ、あなたツェーリヒ語が喋れるのね!」といたく感心するので、「ほんの少しだけ」と恐縮する。
「果ての人々はいつの間にこんなに大きくなったのかしら、小さな人々だと聞いていたわ」
ミルヘがしげしげと私を眺めて手を取った。「ようこそハマカへ」
時間をいただけないかという質問に「いつでも! 明日の昼も、明後日も、空いているわ」と快く頷かれ、私は全身が打ち痺れるようだった。明日の昼に約束を取り付ける。ついにミルヘの話が聞ける! と思うと緊張で目が冴えてしまう。長い一日だった。砂漠に取り残されたことが、遠い昔のように感じる。ようやくここまで来た。安堵して疲れが一気にやってきたのか、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
「どこから話しましょうか」
椅子に揺られながらミルヘが言う。ホテルの屋上庭園で、私たちは色とりどりの花々に囲まれながら午後のひとときを過ごしている。花の蜜を吸いに鮮やかなブルーの小鳥がやってきて、ホバリングしてはどこかへ去ってゆく。
「ミツバシリ、この国ではよく親しまれた鳥よ」
ミルヘが鳥の方を見て言った。穏やかな顔つきに、鳥への果てしない慈愛を感じる。
「そういえば、もうマパは見に行ったの?」
「いえ、昨日到着したばかりでまだ」
「それは大変なことだわ! 明日にでも見に行きなさい。私は逃げないのだから、いつでも話は聞きに来ていいのよ」
マパも逃げないけれど、ミルヘは、マパの姿が一日足りとて同じではないことを身をもって理解しているのだ。上空から軽飛行機でマパを眺望できるツアーがあるとミルヘが言うので、明日はそれに乗ることにした。
ミルヘ・リウヒ。ツェーリヒ民主共和国出身。税務官の娘としてブロイデンで生まれる。一九一六年に父親が戦死したのち、ブロイデンの市立学校へ進学するも、家計の事情もあり大学進学を断念、小学校の教師となる。しかしハイパーインフレーションにより大学の授業料がただ同然の金額になったことから、ブロイデン工科大学に入学する。大学では数学と生物学、地理学と外国語を学んだ。一九二八年、ブロイデン工科大学を卒業したのち、ブロイデン、テクリンデで教師の仕事をしていたが、あるときハマカの教師募集広告を目にしたことで、彼女の人生は一変する。ハマカのラルーにて、ツェーリヒ領事の子どもたちの家庭教師として働き始めたのが一九三二年である。家庭教師の契約が早々に打ち切られたことで、ミルヘはラルーを離れシポスへ滞在、そのとき運命の出会いがあった。マパを見たミルヘは一瞬で虜となり、当時シポスにてマパの調査をしていた考古学者オロソ・マニの助手として働き始める。第二次世界大戦が勃発した際、彼女はツェーリヒに帰国しない決心をし、マパの研究に一層打ち込むようになった。一九七〇年、彼女は「The Mystery of the Desert」と題した本に自説を著す。この本は様々な学者から反応を呼び、多くは彼女の学説を支持しないものであったが、学術的な資源として学会に一石を投じた。彼女は自著の利益をマパ保全活動やアシスタントの雇用に使用した。一九七七年には、非営利団体Mapa Conservation Societyを設立。一九九三年、ハマカ政府より功労勲章を授与され、翌年ハマカ市民となった。現在の彼女は、シポスのホテルに用意された研究室兼自宅で、アシスタントから送られてきたマパの動向を分析する仕事にかかりきりである。脚を悪くしたため、数年現地には赴くことができていないというから、その悔しさは如何ほどのものであろうかと推察する。
翌朝、私はシポス郊外へやってきていた。早朝の空はまだ白く透けている。そこに、真っ黒な砂がすべすべとどこまでも敷き詰められている。町外れに申し訳程度に作られた滑走路の奥に、その軽飛行機はあった。ところどころペンキが剥がれ落ちていたり、扉が歪んでいたりして、命をあずけることに対して一瞬不安が過ぎったが、サングラスをかけた陽気な青年が言うには「よそでも飛行機を飛ばしているが、そこは数ヶ月前に墜落事故を起こしたからこちらのほうが安全だ」とのことで、どちらにせよ不安ではあるものの観念して軽飛行機に乗り込んだ。大地が張り裂けるほどの轟音とともにプロペラが回る。ハマカに来て初めての風を感じる。タイヤが石ころを勢いよく跳ね飛ばして、機体がぐいぐい前進する。その後ふわり、と一瞬浮遊感があって、気がつくと私は空を飛んでいた。パイロットの腕前はなかなかのもので、機体を斜めに傾けて旋回したかと思えば、次の一瞬にはくいと上昇してみせたりと、機体の軽さを極限まで活かしたフライトに不安など飛び去ってしまい、俄然わくわくしてきた。町並みが次第に遠ざかっていき、私たちは寂寥の大地に取り残される。青と黒だけが広がる静寂の世界。機体は次第に高度を下げていき、地面の凹凸が作り物のように陰影を貼り付けて静止しているさまが見える。
「Hey」
パイロットが大声で言った。身を乗り出して見る。交錯する数多の紅白の筋が視界に飛び込んできた。蛇行したり、重ねられたり、うねったりしながら、線たちはあらゆる方向へ走ってゆく。その数は数千、数万とも呼ばれ、いつから始まったものであるかすら定かではない……。
「——」
パイロットが叫んだ。エンジン音にかき消されて聞こえない。私は操縦席に顔を寄せる。彼は地面を指さしてもう一度叫んだ。
「エメラルド川」
地を這う蛇のような、豊かな線が砂漠に描かれている。白い線はアメーバ状の赤い模様の中からいでて、下流に行くほどに広がっていく。この「エメラルド川」はマパの中で最も太く縁取られた線で、最も雄大な「川」と言われる。「川」は時折蛇行しつつも外へ外へと流れ続けている。マパ全体を見渡すと、六角形のような、円形のような図形が象られていて、その非対称性から現在もその外縁が拡張され続けていることがわかる。
「中心部」
パイロットが、地面に展開された紅白模様の中央で旋回する。始まりの場所。ここから第一のマパが展開されている。信じられなかった。放射線状に広がっていく紅白模様は人の手によるものではない。マパピスクと呼ばれる小さな鳥たちのしわざなのである。マパは、マパピスクたちが毎夜毎夜せっせと地を削り、石を運んで作り出す天然の絵画なのであった。
一九二六年に発見されて以来、人類はこの絵画を「地図」だと結論づけた。直に見ると確かに、赤い石で縁取られたそれは山々に見え、地面を削り取って作られた白い筋は川に見える。マパピスクたちは群れで一つの地上絵を織り上げる。そのためマパは群れごとにいくつか点在しているという。少し離れた場所にもう一つ、別の群れが作り上げたマパがあるということで、その方位へ向かう途中だった。
「マパピスク!」
パイロットが再び叫んだ。視界の先に、三羽のマパピスクが飛んでいた。距離が離れているので空の中にぽつりぽつりと見えるばかりだが、エメラルドグリーンの羽毛は燦然と輝いていた。オウムのような丸く曲がった嘴に、赤い石を咥えているように見えた。マパピスクたちはすぐにどこかへ飛び去ってしまったが、夜行性の鳥であるから日中滅多に見られることはないという。パイロットも興奮していた。私はこの地からの祝福を感じて、気づけば涙を流していた。
「最高だったでしょう」
夕方会いに出かけたミルヘは、開口一番そう言った。私は再び感激の涙をこらえながらうんうんと二、三度頷いた。
「第一のマパは、今で直径百メートルほど。まだまだ拡がっていくのでしょうね」
ミルヘは、遠い目をする。
「五十年前の私も同じ。この地上絵に足を取られたの。マパは解かなければならない壮大なパズル。これが私のしごとなのだと、そのためにはるばるハマカの地までやってきたのだと、そのとき悟ったのね。本当に、マパとの出会いは運命的なものだったわ」
ミルヘはそうして、マパピスクたちが作りあげる「地図」が一体どの場所を表した地図であるのかを調査し始めた。マパピスクたちの行動範囲を観測して、ハマカの地理と照らし合わせた。十数年の調査の末に分かったのは「マパピスクたちの描く地図と一致する場所は、この地球上に存在しない」という奇怪な事実だった。
「あのときはもう驚いて食事も何も手につかなかったわ」
ミルヘは当時を回想して大笑いする。
「当時はね、オンボロの自動車にありったけの食料と水を詰め込んでは、十日ほど連続でマパの近郊に泊まり込んで、車中で調査を続けていたの。マニ博士も帰国せざるを得なくなって、研究を進められるのは私だけだったから。食べるものなんて水とトウモロコシをかじる程度でね。それくらいマパに取り憑かれていたわ」
ミルヘの出した結論は、人類には早すぎた。
死者の国仮説。
マパピスクは太古に栄えたシポス文明で、「夜の鳥」として多くの壁画や装飾品に残されている。夜というのは死の国でもあり、実際にシポス文明には「マパピスクが夜に活動するのは死者を死の国へと案内するためだ」という神話があった。ミルヘはそこから、「マパピスクは死者の国の地図を描いている」という大胆な仮説を打ち立てたのである。「死者の国」が実在するのかはわからない。実在したとして、どこにあるのかもわからない。私たちには見えない。しかし、マパピスクたちが描くのは紛れもなく死後の世界の地図だというわけである。ミルヘは、マパの中心部を、そのままその土地の座標に適用した。つまり、「死者の国」はこの世界と重なるようにして存在しており、マパピスクたちは中心部を起点として「死者の国」の縮尺図を外へ外へと展開し続けているというのだ。
「マパピスクには、弔いの概念があるの。マパピスクは、死んだ仲間の骨を、彼らが作るマパのどこかへ据える。私はこれを、死者の国で、彼らの場所を表す目印なのだと信じているわ」
マパピスクたちがマパの上に置いた骨の位置をマッピングした、貴重な資料を見せていただいた。端の方に数式や走り書きがたくさん書き込まれている。法則性を見出そうとした彼女の努力の跡が滲み出ているが、わかったのは「法則などない」ということだけであった。それならば、マパピスクたちの気まぐれか、あるいは私たち人類には見えないものを手がかりにして、マパピスクたちが骨を置いていると考えるほうが自然だと、彼女は考えたのだ。マパピスクたちは群れで一つの地図を作り上げる。あたかも共通した一つの意思を持っているかのように見えるマパピスクたちの生態についても、まだまだ不明な点ばかりである。
しかし私自身としても、ミルヘの突拍子もない学説に対して、ある種の信憑性を見出している。これは、実際にマパを見ないとわからない感覚であるように感じる。マパには人類の及ばない何か大きな力が働いているように思われてならないのだ。何より、生涯をかけて死者の国の地図をつくりあげる鳥たちがこの世界に存在するとしたら、それはとびきりロマンチックなことではないか。
マパピスクたちの織りなす地図を見ていて、私はそこに小さな書き込みを見つけた。
「エメラルド川」
私が呟くと、ミルヘは照れくさそうに笑った。
「マパピスクに黙って名前をつけたのよ。この川はエメラルド。一番大きいでしょう、私の好きな石なの。マパピスクたちの色でもある。あの川はサファイア。二番目に大きな川。この山はカリト山。現地の言葉で『お嬢さん』を表すの。こじんまりとしてお嬢さんみたいだから」
名付けるのは人類の特権ね、とミルヘは笑う。私は川をなぞった。ミルヘはそれを見て微笑んで、思い出話をしてくれた。
「まだブロイデンにいたころね。私の家は川のほとりにあったわ。妹とよく川遊びをしたものよ。川底の石を集めたり、葉っぱで舟をつくって川下まで競争させたりね。妹と水を掛け合って、どちらもずぶぬれになって。あとで叱られるけど楽しくて仕方がなかったわ。
川はずっと好きね。私がマパにここまで惹かれるのには、川の存在も大きいのでしょうね。シポスなんて砂漠の街でしょう。それなのに、マパピスクたちの描くマパには川が描かれているのよ。いまこの瞬間も、私たちには見えない世界では川が流れている。いまここが、もしかしたら水の底かもしれないだなんて、素敵じゃない」
ミルヘは別の地図を取り出して言う。
「マパピスクたちが、どのくらいの縮尺でマパを織り上げているかは議論がわかれるところね。でも、数パターン考えてみて、これが一番しっくりくるの」
第一のマパと、シポスの街の地図が重ね合わされている。中心部を始点として、地図上におけるマパピスク一羽の翼長を、実際の死者の国の翼長三百羽分とする。三百羽は群れのおおよその単位である。
「人間が考え出した単位で鳥たちが動いているわけがないもの。単位を考えるとき、私たちはまず体の部位を使うでしょう。マパピスクたちもそうじゃないかと考えたの」
私はプレゼントを受け取る朝のような心地で、その地図を見せてもらった。私たちのいる場所は、ちょうどエメラルド川の川底だった。死者の国、そのようなものの実在は、これまで人類には確認できていない。でも、これからのことはわからない。死者の国では、この場所に川が流れていて、死者たちはそこで川遊びをしているかもしれない。
「見て! 日が沈んでいくわ」
黒い大地に黄金の光がゆっくりと降りていった。夜の帳を引き連れて、太陽が身を隠す。死者の国の始まりに、私たちはじっと見入った。マパピスクたちの大仕事にかけられた永い時間を、シポス文明で流れていた悠久の時を思った。しんと静まり返った屋上庭園に、見渡す限りの砂漠の地に、暗く静かな影が優しく被さった。
帰国後も、ミルヘとは手紙のやりとりを行った。ハマカの郵便事情はすこぶる悪く、三通に一通しか届かない。いつしか全く同じ内容の手紙を複数投函することに慣れていった。彼女が亡くなったと、ミルヘの妹から連絡があったのは、彼女に出会ってから十年後のことだった。
その間に、私はミルヘとの思い出を著した一冊の本を書き上げた。ミルヘの悲願が成就し、マパは世界遺産に登録された。ミルヘ亡き今、彼女の学術的な業績については限定的な評価にとどまるも、その保全、普及活動は非常に大きな業績であったとして、世界的に評価されている。シポス近郊の灌漑計画は、マパが世界遺産に登録されたことで中止された。彼女の最期の大仕事は、灌漑計画の中止を呼びかける署名活動と、マパのさらなる保全であったと言えるだろう。私も、微力ながら国内で支援金を募り、ハマカへと送金した。彼女の最期の手紙には、あのエメラルドの指輪が同封されていた。私は、再びハマカへと降り立つ決意をした。
十年経って、第一のマパの直径は百一メートルに到達していた。少しずつだが、地図は着実に更新されている。生前ミルヘのアシスタントを務めていたマーシャが、特別に第一のマパへと案内してくれた。地上からマパを見るのは初めてだ。驚いた。削られた白い大地の深さは一センチメートルもない。こんなちょっとした窪みで、上空からはあんなにくっきりと線が見えるのか。また、赤い石はシポス郊外にあるテウェア山から運ばれてくるのだという。その赤い石も間近で見ると思ったより小さくて、風が吹けばころころと飛んでいってしまうかのように思われた。この地には風が吹かない。雨も降らない。だからこそ、長い年月の間マパがそのままの姿を晒し続けている。その奇跡に再度胸を打たれ、ミルヘの守りたかったものを今まさに私は見ているのだと思うと、つい涙が零れてゆく。
「マパピスク!」
突然、マーシャが囁いた。マパピスクが一羽、こちらに飛んできたのだ。信じられない。マパピスクは私たちから少し離れた場所へ着地して、こちらの様子を伺っているようだった。息を呑む。私のやるべきことはわかっていた。何年も前から、ミルヘと出会う前から、マパがつくられる前から決まっていた。私は、エメラルドの指輪をマパピスクの方へ差し出した。警戒心の強い鳥であるのに、マパピスクは一直線に私たちの元へと飛んできた。エメラルドグリーンの鮮やかな羽根、漆黒の瞳に赤褐色の曲がった嘴。人智を超えた深遠なる鳥。マパピスクは、私の差し出した手に止まり、思案しているようであった。静寂が支配する。心臓の鳴る音でさえ、今この場では惜しかった。
一瞬だった。
マパピスクはエメラルドの指輪を咥えると、パササと飛び去っていった。
私たちは心ここにあらずで立ち尽くしていた。しばらくして、どちらともなく追いかけ始め、マパピスクの飛んでいく方へ導かれていった。マパピスクは、二、三度大きく羽ばたいて、マパの一画に降り立った。エメラルドの指輪が地面に据えられる。マパピスクはどこかへ飛び去ってしまった。太陽を反射して清浄な緑光が天を貫いた。
マパを見た。そこは、エメラルド川の底だった。かつて見せてもらったシポスの地図と眼前のマパを脳内で照らし合わせる。そこは、ミルヘが晩年を過ごしたホテルであった。それとも、幼少期に遊んだという自宅横の小川であったかもしれない。死者の国が実在したとして。彼女が選んだのは川だった。荒涼たる大地に流れる一筋の川。そこにあるはずの、しかし、決して見ることの叶わない川。
ミルヘ・リウヒ。マパとマパピスクを愛し、その一生を捧げた一人の女性。彼女はいま、死者の国の川にあって、マパを構成する一つの粒となった。私は、眼の前に彼女を感じる。彼女はいたずらっ子のようにはにかみながら「ほらね、砂漠にも川が流れていたでしょう」と、水飛沫をこちらへ振り掛けてくる。
5000字部門佳作
「しかくを切り取るみかたのこと」長尾たぐい
しかくを切り取るみかたのこと
長尾たぐい
私は別の世界のことを繰り返し夢に見る。そこに生きる「わたし」は界図作りを生業にしている。
界図を作る掌家に加わるためには条件がある。わたしはそれを満たしていた。生家を離れて掌家に入ったのは四つの時だった。実の親のことはもう何も覚えていない。ただ、自分を包み込む湿った空気と、高い音域でだけ独特の抑揚をつけた歌だけはこの身体に沁み込んでいる。
「それがお前の『界』の実だ」
ウイはそうやって、わたしにそれらを自分の中に巡らせるよう何度も言った。掌家は堂から免許を与えられた者が親となって子の面倒をみる。ウイは男と思い違うほどの瘦身巨躯に掠れた低い声をした女で、堂主に「これがお前の親だ」と言われたわたしはひどく怯えた覚えがある。
「今日の分はできそうか」
不愛想なのは声色だけで、ウイはずいぶんと情に篤い人だというのはこの十年でよく理解できた。わたしは「もう城市を歩くのもこれで四度目だから、心配しなくても大丈夫」と応えた。
城市は里と違い人の気配が多すぎる。かといってその多さは山野のものとも違う。初めて城市に足を踏み入れた十一の時、わたしはひどい嘔気に襲われた。堂を介して界図作りの請願を受け取った時は、ウイの働きに力を添えてみせると意気込んでいたというのに、蓋を開けてみるとこの様だというのがとても情けなかった。
わたしはせめて足手まといにならないよう、堂と所縁のある宿に置いていってくれと頼んだが、ウイは頑として譲らず、わたしを連れて城市を歩いた。そのせいで一日で巡ることのできる分には限りがあり、界図作りは遅れに遅れた。結果的に廟への奉納が遅れたその城市の城代は、苦々しさを言葉の端々に忍ばせながらウイに施捨を渡した。ウイはそれを受け取り、丁寧に遅作についての詫びの言葉を口にしてから「御前の寛大なお心にて、この青子に修業を積ませることが叶いました。手前の僭に過ぎませぬが、これはなかなかに掌家としての才がございます。次なる奉納でこの者に界図作りをお任せくださることあらば、御前の統べるこの城市の隆盛を格別の界図として天子に奉ずることができましょう」と続けた。その言葉には珍しく熱が感じられたのでわたしはひどく驚いた。城を出てからあんなことを言って大丈夫なのか、と思わずウイを問い詰めた。
「城代に言ったこと、あれじゃあ——」
「私がお前に常々言っていることと真逆ではないか、と?」
人は界に在り、界の一部でありながら同時に界を変えることができるが、界そのものの価値を決めることはできない。いつもウイはそう言っていた。
だが同時に、人は界の在り方に無意識に価値をつけてしまう。だから人々は廟に奉ずる界図作りを掌家に任せる。ただ、掌家も人だ。だから界を写し取る時、それを界図に落とし込む時、己がそこに入り込みすぎないよう気を付けなければいけない、とも。
ウイの先ほどの言葉は「今回の遅れに目を瞑っておくことで、この城市が栄えていると印象づけられるような界図を次は作ることができる」と言ったようなものだ。そんなことは掌家にはできない。
「あれはただの方便だ。私がいつお前に『なかなか才がある』などと言った」
「そこは分かってるよ、あれを城代が本気にしたらどうする気なんだ」
ウイはわたしの反論を鼻で笑い飛ばした。
「あの城代はそこまで馬鹿じゃない。城市を歩けば分かる。ああ言っておけば、お前が免許を得たころに少なくとも一回は請願で指名してくれるだろう」
そういってウイはわたしの頭を撫でまわした。その言葉が何を意味しているのか理解するまでに、わたしはたくさんの土地を巡り、だんだんと界図を作ることに慣れていった。城市を訪れるのもこれで四回目、ウイは初めてわたしにここで作る界図の半分を任せてくれた。
だから期待に応えたい。
*
小学生の頃の私は、夢の中で掌家たちが作っているものはこちらでは「地図」と呼ばれるものだ、と考えていた。
「今日は僕らが住んでいる街のことを知るために、地図に触ってみよう」
きっかけは社会の授業で先生が広げた、3Dプリンタで作られた触地図だった。
その時、盲学校の小学部に先天性の盲の視覚障害者は私しかいなかった。中途失明の子、色が分かる弱視の子は「ちず」という言葉がどんなものを指しているのか前から知っていたのかもしれない。私も、この世に「ちず」というものがあって、見えている人はそれを使うことで誰の手も借りずに自分の行きたいところへ行ける、ということは知っていた。けれどそれがどんな形で、大きさで、それによって何が分かるのかは知らなかった。
私は指先で紙の上の微かな凹凸をなぞった。
「これが、地図」
前に授業で教わった地図記号と、点字。それを皮膚で読み取る。いつも賑やかな駅前のスーパーの隣に、クリーニング屋さんがある。こんなところに大きな池がある。だから冬になると夏より多く鳥の声が聞こえるんだ。学校の裏手はみんな田んぼ。あ、ちょっとだけ果樹園の記号がある。何が植わっているんだろう。
「すごい、知ってる場所に知らないことがたくさんある」
そうか、そうかと先生はすごく嬉しそうに、私やみんなが上げる歓声に相槌を打っていた。だから私の「そうか、界図って地図のことだったんだ」という言葉は誰にも拾われずに教室の中で消えていった。
生徒の反応に合わせるように、少しだけ興奮気味に先生がこう切り出した。
「先生もこれを作ってひとつ発見したんだ。駅のあたりから学校に向かって少し坂になってるって。学校の住所は『土山』なんだけど、ここ本当に山だったんだな」
私もみんなも驚いて口をつぐんだ。
「そうだよ」
「え、先生知らなかったの?」
「歩くと分かるじゃん!」
生徒のほとんどに一斉に反論されて先生はオロオロしていた。その狼狽っぷりが面白くて、先生が知らないことを自分たちが知っていることが嬉しくて、みんなで大きな声を上げて笑った。
掌家はあちこちをひとりで、あるいは子を連れて放浪する。杖をつき、方位鈴が鳴らすチリチリという音の高低から方角を聞き取りながら、世をあまねく巡る。水を乞うたり、荷車に乗せてもらったりと時に他人を頼ることもままある。それはあらゆる旅人と変わらない。ただし、界図を作る時は別だ。必ず随者と呼ばれる晴眼の者と連れ立つ。人通りの少ない街道や、牧者が稀に現れるだけのような場所では、ひと月近く待つこともある。それは請願に応える場合のみならず、掌家自身が奉納のために界図を作る時も変わらない。
界図は人が天子に捧げるものだ。この世において未だ人が知らぬ場所があるとして、そこの界図が作られることはない。掌家は人であり道具である。人の在る所を掌家が界図として纏め上げ、それによって天子に世の全てをご高覧頂く。
そのために界図を作る時はまず、地面の感覚を忘れることから始める。そして、その日かけて歩いた場所の音を、匂いを、空気の温度と湿り気と流れを、足の裏から感じ取った土地の起伏を、随者の時に雄弁で時に呟くような語りを、あるいは彼や彼女の吐息が織りなす律動を己の内側に巡らせる。そして、堂から渡される基を使って図を作り上げていく。基は匂いがなく、手触りがよく、自在に形を変える。どのような色をしているのかは各地の堂主しか知らない。そして堂主たちがそれについて口を開くことはない。わたしはウイに気づかれないよう気を付けながら——以前に「堂主しか知らない、とだけ知っていればいい」とぴしゃりと釘を刺されたから——さる場所の朗らかな老爺の堂主に基の色について尋ねたことがある。わたしの界に色はないけれど、世にそういうものがあるとは知っている。基は空のように青いのか、それとも林檎のように赤いのか。興味があった。堂主は困ったように、それを口にすることは固く禁じられているのだ、と柔らかく、だがはっきりと答えることを拒んだ。そしてその後ぽつりとこう言った。「界を表すためにそれは不要な事柄なのだろう」と。
夢の中の「わたし」はそうやっていくつもの界図を作った。冷たい風の吹き付ける山岳を、悠々と流れる大河を、怒涛打ち寄せる岸壁を、無くなる寸前の寂れた里を、喧騒溢れる城市を。ウイと手を取り、人の手を借り、界図を作り上げた後、目覚めるたびに言いようのない充実感を得た。
「わたし」のように、私も様々な場所に出かけてゆきたかった。両親をはじめとして、周りの人はそれを好意的に受け入れてくれた。装備の必要な山登り、カヌー、ダイビングに挑戦した。人の少ない山里を、人が溢れる大都会を歩いた。
少し高台にあって風の強く、人の気配に満ちた私の家の周り、それを実に私の中で界図がいくつも作られた。私は訪れた場所で手に入る限りの地図を集めた。少しずつ違う四角い紙の手触り、大きさ、厚みは界図の一部となった。
でも、それは晴眼者にとってずいぶん奇妙なことだったらしい。
ある大きな街を訪れた時のことだった。鉄道の駅で、その街に詳しい人との待ち合わせ場所まで、駅員に案内をしてもらった。私はついでに先んじて地図をもらおうと思った。
「すみません、このあたりについてのガイドマップが駅にあるなら、一部ずつ分けてもらえませんか?」
ついさっきまでとても親切にしてくれていた駅員は「はァ、ガイドマップ」と呆れたような、馬鹿にするような返事をした。「どうぞ」という言葉もどこかよそよそしかった。その後、その街で何をしたのか、そこがどういう場所だったのか、全く思い出すことができない。私はその日以来、訪れた場所の地図を集めることをやめた。
それからしばらくして、夢の中の「わたし」は免許を得るために掌家の本堂を訪れて問酬を受けた。いつも「わたし」としての夢ははっきりと覚えていられたのに、その夢だけどうしても思い出すことができなかった。「わたし」が掌家として認められたのかは分からない。それを最後に私は「わたし」の夢を一切見なくなった。私はあの得難い充実感をすべて忘れ去った。
入学した大学で、あの講義を受けるまでは。
「地図は人間の土地に対する認識・理解・表現を介して、土地の姿を形にするものです」
こつ、こつと壇上を歩く音を立てつつ、講義の担当教官はそう言った。
「皆さんが訪れる場所も、住んでいる街も、この大学のキャンパスも、地球の上にあります。地球は字の通り、球形をしています。それを一枚の紙、平面の物体にいろいろな方法を使って、なるべく正確に落とし込もうとしてきた試行錯誤の結果が、今日の講義で説明した地図の歴史や図法の発展です」
でもね、と彼は苦笑した。
「何かを書くと決めることは、何かを書かないと決めることです。地図は作り手が決めた縮尺で、方法で、書くと決めた事柄を書きます。僕はいっぱい地図を作ってきましたが、そのたびにすごい興奮と、諦めを一緒に感じてきました。……そのちょっと惜しいな、まだ何かできるよな、という気持ちを頑張って形にしようと今は研究しています」
そうやって教官は講義を締めた。私は勇気を出して教壇に向かった。
「地図の話、面白かったです」
それは嬉しい、と教官は明るく応じてくれた。それでも私の足は一瞬すくんだ。
——ほら、歩くよ。掌家は歩くのも仕事。
夢の中で、幼い「わたし」がもう歩きたくないとぐずるたび、ウイはそう言った。一歩前に踏み出そう。私は盲の視覚障害者として「地図」に初めて触れた時のこと、その後いろいろな場所を訪れて集めた地図のことを話した。教官は興味深そうに話を聞いてくれた。
「地図が、あって、私はそれを読めなくて、でも大事なんです。それが。それがないと私の中でその場所が完成しないんです」
話し過ぎた、と思った。最後の一言は口にするつもりではなかった。忘れていたはずの駅員の冷ややかな声が思い出された。
「そうか、君の中にはそういう地図があるんですね」
そうか、ともう一度噛みしめるように彼は言った。そのことがなぜだか嬉しかった。
「地図に興味がある?」
はい、と答えると教官はバサバサと紙をめくる音を立ててから、私の名前を呼んだ。
「まずはデジタル化済みの論文と書籍を紹介しますね。音声読み上げできないものが読みたくなったら言ってください。対応します」
ありがとうございます、と私は深く礼をした。
その日、わたしはずいぶん久しぶりにウイと会った。元気にしてた? と尋ねると、まあね、とぶっきらぼうな答えが返ってきた。
「お前の『弟』には手を焼いている」
こんなに毎日歩かされるなんてひどい! と知らない声がした。わたしは一人前の掌家として「弟」を宥めた。
「世界を歩いて、知って、纏める喜びを君もいつか知るよ」
そしてそれは簡単に手放せるものではないということを。
参考文献
伊藤亜紗(二〇一五)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書
*作品は選評とともに「星々」vol.5 にも掲載されています。
また、受賞作に対する皆さまの感想やご意見も募集しております。
いただいたご意見はできるかぎり壇上でご紹介させていただきます。
登壇者への質問も歓迎です。
感想・質問フォームの受付は7/7(日)まで。
◆糸川乃衣
埼玉県出身。「握りしめるための石ころをさがす」で第1回星々短編小説コンテスト正賞。「叫び」で第3回かぐやSFコンテスト審査員特別賞を受賞。SFレーベルKaguya Booksより短編集『我らは群れ』を刊行。雑誌星々に数々の作品を毎号寄稿。
お話を読んだり書いたりする者のひとりとして、語りの不均衡に抗ってゆきます。
Xアカウント @Itokawa_Noe
◆なごみ
静岡市在住。「長方形の向こう側へ」
「賞状を燃す」、「シアターなないろ」、「交差点で立ち止まる」
星々短編小説コンテストへの応募から小説を書き始めました。「
Xアカウント @753_3
◆貝塚円花
東京都生まれ。北海道在住。
「悪い儀式」で第2回星々短編小説コンテスト一万字部門正賞。
Xアカウント @madokaizuka
◆蓮見
東京都在住。
「老害ラプソディ」
◆森潤也
出版社のポプラ社にて宣伝デジタルマーケティングユニットのマネージャーを勤める。
書籍のプロモーションを行いながら編集者として小説の編集も手掛けており、担当ジャンルは文芸書・時代小説・ライト文芸など。主な編集作品に、ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』、凪良ゆう『わたしの美しい庭』など。
Xアカウント @junyamegane
◆江口穣
東京都生まれ。幼少期をアメリカ合衆国コネチカット州、東京都町田市などで過ごしたのち計26度の転居を経験。2020年の星々発足時より事務局長として各種講座などの運営や雑誌「星々」編集に携わる。2024年5月、星々の本棚シリーズより個人作品集「1998年からのラプソディ」を刊行。
Xアカウント @JoEguchi
◆羽田繭(司会)
静岡県出身。現在は神戸市在住。2021年より星々運営スタッフ。2023年5月、星々の本棚シリーズより個人作品集「とおい、ちかい、とおい」を刊行。 いつかイタリアに行きたい。
Xアカウント @tea_for_four
◆星々贈賞式
文芸博当日、15:20から5階トークイベントスペースにて、「星々贈賞式」が開催されます。
Map8。受賞者・藤井佯さんのブース。
Map19。登壇者・糸川乃衣さんのブース。
Map7。登壇者・貝塚円花さんのブース。
Map1〜4。星々のブース。
第3回星々短編小説コンテスト(テーマ・地図)受賞作が掲載された雑誌「星々vol.5」のほか、登壇者の作品が掲載された「星々」の既刊が販売されています。
また、雑誌は星々のオンラインショップでもお買い求めいただけます。
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