小説を書くことや本を作ることはわたしがクィアであることと不可分で、自分にできる抵抗の手段であると思っています。性の話をいっぱい書いていく。
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小説を書いています。
どんな小説ですか?とひとに聞かれるといつもどぎまぎしてしまう。クィア文芸、純文学、ボーイズラブ、百合……そのときどきによっていろんな名乗り方をしています。好きな作家や作品の名前を挙げてなんとなく傾向を察してもらうこともあります。
どんなかっていうのは書いているわたしが決めることじゃない気がするので……と説明することもありますが、われながらちょっとふてぶてしい。
名称がどうあれ届く人には届くと思いたいのかもしれません。カテゴライズや権威のようなものからできるだけ距離をとりたいと思っているのと、ジャンルやラベルをもっと撹乱させたい気持ちと。
そして、ともかく作品を書くことに精一杯になっていたいというか、書きたいことや書きあぐねていることで頭がいっぱいで名乗りをじょうずにやる余力がないのもある気がしています。
これは自分がクィアであることの実感と近いものがあるように思います。
わたしがどういう名称を用いて説明しても、ほかの人からどう見えているのか、どう思われているのかは決めることができないし、無意識のラベリングから自由になるのは難しい。
そして生活していくこと、存在していることでいっぱいいっぱいで、じょうずな表明をする余裕もあまりない……。
と同時に、だからこそ、自分がどう名乗りたいのか、どう名乗っているのかが大事だとも思います。
自分についても、小説についても、相手や場所によってわたしはいろいろな言い方をしますが、それはわたしとあなたの会話で、コミュニケーションです。
[おもなラインナップ]
●庄野潤三「五人の男」オマージュアンソロジー 任意の五
庄野潤三「五人の男」は、五人の男性について語ったスケッチ的な短編です。 隣の下宿の男、バスで見かけた男、父の友人、父の親しい友人、雑誌の記事で読んだ男。五人の男性につながりはなく、エピソードは並列に並べられ、あまり脈絡もなさそうに読める小説です。 なぜ並列に語ろうとしたのか。そのようにして語りたいこととは何か。 素朴で平易な語りの中に、終戦を経た男たちの父性、男性性を見つけることができるように思います。生存のとまどいであったり、語ることの照れやためらいであったり。 本アンソロジーは、「五人の男」から想起したものをそれぞれ自由に書いた作品集です。小説、論考、日記、俳句など。
男性性、クィア、プロテストに関心のある方におすすめです。
板垣真任「大合唱」 我那覇剛柔丸「波の五分(ごぶ)」 晋太郎「ペンタクル・サークル」 深澤元(つまずく本屋 ホォル) 「読書メモ「五人の男」はなぜこの順番で並んでいるのか 」 宮月中「五人と鳥」 星野いのり「月の壜」 添嶋譲/宮崎竣輔「Profiles」 まさと(まなざしのフェミニズム)「男たちと別れ—からかいの男性性—」 兼町ワニ太「動物園日誌」 隙間「うつわ日記」 暴力と破滅の運び手「悪魔の抱擁」 オカワダアキナ「ホーン・ホーン・ホーン」 瀬戸千歳「まんまるくてかわいいおばけ」
●イサド住み
トランスジェンダー男性が主人公のボーイズラブ
●顔たち、犬たち
性的なゆらぎや破滅願望と表裏一体にある、喜びとかケアとか。
●リチとの遭遇
セクシュアリティの試行錯誤と郊外の話
●ケンゼン薬局
クィアな女の子たちの短編集
●プロテスト・モノローグ2
パレスチナ連帯のアクションを日々やるなかで考えたことなど。コピー本です。
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